世界中の人々が離合集散するホテルは社交場であり、西洋文化の発信基地であった。そして日本人には、新しいライフスタイルを体験できる入り口となった。また初期の頃は、ホテルは庶民にとって憧れの世界に過ぎなかったものの、時代が進むにつれて中産階級も利用できるホテルが登場し、ホテルの社会的役割もさらに増していった。
【注目すべき出来事や論評】
1892年(明治25年)帝国ホテルで結婚披露宴が催された。当時、ホテルでの披露宴は非常に珍しかったことから、新聞で報じられた。以後、帝国ホテルでも力を入れた。ホテルでの結婚披露宴が広まる契機になった。
1893年(明治26年)喜賓会設立。渋沢栄一らが中心になって組織された外客誘致機関。英語名はWelcome Society。事務所が帝国ホテル内に。外客を誘致するという発想がこのとき生まれた。
1898年(明治31年)東京・築地のメトロポール・ホテルでフランス製の自動車の競売が行なわれる。自動車を持ち込み、滞在したのはフランス人技師のJ・M・テヴネ。彼は日本の路上で初めて自動車を走らせたが、競売は成立しなかったという。
1906年(明治39年)富士屋ホテルの山口仙之助の主唱により、大日本ホテル同盟会が組織される。参加したのは14ホテル。日露戦争後の国勢進展に合わせて業界の発展を企図したものだった。日本ホテル協会結成の端緒となった。
1907年(明治40年)神戸市のトアロードの語源になったトア(トーア=Tor)ホテルが外国人の出資により開業(翌年開業の説もあり)。下田菊太郎が設計した城館風の建物も特色に。また同年、オリエンタルホテルも海岸通りに移転、覇を競い合う。
1909年(明治42年)日本ホテル協会が設立される。同年6月、当初は日本ホテル組合(28ホテル)として結成されたが、その後、日本ホテル協会に改称された。
1910年(明治43年)森鷗外がこの年の『三田文学』で、築地精養軒ホテルに材をとり、『普請中』を発表。国家の普請と一部建設中のホテルを掛け合わせた。1919年(大正8年)には、佐藤春夫もこのホテルを舞台に『美しき町』を書き上げている。
- トーアホテル
- トーアホテル
1912年(明治45年)ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立。欧米留学で観光事業に目覚めた鉄道院の木下淑夫が尽力。喜賓会の事業を引き継ぐ。戦後の日本交通公社の前身。
同年東京・大森に開業した望翠楼ホテルが「大森丘の会」の拠点として使われる。同会は近隣在住の知識人や芸術家の談話会。一種の文化の発信地となる。また、同様の例では、この4年後に開業した東京・本郷の菊富士ホテルがある。多くの作家や知識人、思想家、芸術家が長期滞在者となった。
1913年(大正2年)チェコ人の建築家ヤン・レツルが設計した宮城県の松島パークホテルが開業。外観を和風とし、4年後にはやはり彼が手掛けた同様のホテルが広島県の宮島(1923年の項を参照)にも開業。またレツルは、後に原爆ドームとなって残る建物、広島県物産陳列館(産業奨励館)も設計し、日本と縁の深い建築家となる。
- 松島パークホテル(左)
- 松島パークホテル
1915年(大正4年)大正天皇の即位大礼(御大礼)で、京都ホテルには最多の十数ヵ国の使節が宿泊。賓客接遇の経験値が高まった。
1916年(大正5年)日光金谷ホテルの経営者・金谷眞一が発起人となって日光自動車を設立。宿泊客の送迎や旅行者の遊覧のために生かす(前々年には富士屋ホテルが富士屋自動車を設立)。ホテルが交通の分野でも地域振興に貢献した。
1918年(大正7年)雑誌『建築画報』が東京ステーションホテルの繁盛ぶりを報じる。「旅館よりもホテルの方が手続きが簡便で経済的と知れ渡り、新婚旅行に出かけるのも便利なので、結婚披露宴の件数も増えている」と。ホテル大衆化の一つの契機に。
1923年(大正12年)当時のビール王・馬越恭平(大日本麦酒社長)が業績不振の宮島ホテル(前出)を救う。「出資の目的は利益ではない。宮島に貴顕を迎えるのを光栄に思うからだ」と述べた。企業家がホテル経営に対して、一種のパトロン精神を発揮した事例。
- 宮島ホテル
- 宮島ホテル
同年関東大震災の日は帝国ホテル・ライト館の開業披露宴の日でもあったが、被害は軽微で済み、被災者や被災企業、外国公館への奉仕活動に専念。災害時、ホテルが救援活動の拠点になった。
1926年(大正15年・昭和元年)この年に開業した宝塚ホテル(注1)が阪神間在住の知名人の社交団体として宝塚倶楽部を設立。その一部のゴルフ部門が宝塚ゴルフ倶楽部に発展した。ホテルが地域社会の中心になった好例。
1927年(昭和2年)ホテルニューグランドの総料理長サリー・ワイルが“レストラン革命”を起こす。それまでホテルのレストランは定食メニューが当たり前だったが、「グリル・ルーム」を開設し、アラカルトでの注文を受けるように。食事スタイルの多様化を促した。
同年万平ホテルが積極的にチェーン展開。この年に熱海万平ホテル、1931年(昭和6年)に麹町万平ホテル、32年(昭和7年)に八洲(やしま)ホテル(東京・日本橋)、33年(昭和8年)に名古屋万平ホテルを開業。日本人客の増加を見込んでのチェーン経営だった。
同年帝国ホテル支配人を退職した林愛作が『サンデー毎日』に「理想的なホテル」と題した文章を寄稿。この中で日本間と洋間を組み合わせた和洋室を提唱、開発を任された甲子園ホテル(1930年開業、現在は武庫川女子大学・甲子園会館)で実行に移す。
- 甲子園ホテル
- 甲子園ホテル
1928年(昭和3年)別府温泉の亀の井ホテル経営者・油屋熊八が亀の井自動車を興し、女性バスガイドを採用して人気を博す。観光振興の新アイデアとなった。
1931年(昭和6年)兵庫県西宮市に本格的な長期滞在型のホテル・パインクレストが開業。料理教室や書道教室など、さまざまな文化活動が催され、ホテルに住まうという新しいライフスタイルが提示された。
1934年(昭和9年)富士屋ホテルが日本文化を詳細に紹介した『We Japanese』(英語版)を刊行。現在も販売し続ける。ホテルが日本文化の啓蒙役を果たした好例。
1936年(昭和11年)二・二六事件を起こした反乱軍が山王ホテルに立て籠もる。まさにホテルが歴史の目撃者になった。
1937年(昭和12年)東京YMCA国際ホテル専門学校が雑誌『主婦之友』で「就職難のない楽園」と報じられる。同校は2年前の開校。学生の優秀な点が評価され、課程の中途でも採用するホテルなどが続出した。人材の育成、その重要性が認識された。
- 山王ホテル
- 山王ホテル
1937年(昭和12年)この3年後の日本万国博覧会と東京オリンピック開催に向けて、485室の東京中央ホテルが鍛冶橋に計画される。しかし、戦争の影響で、万国博、オリンピックともに中止となり、この巨大ホテル計画も頓挫したようだ。
- 東京中央ホテル完成予想図
1938年(昭和13年)東京・新橋駅前に「東洋最大のビジネスホテル、全館冷暖房完備」を謳い文句に626室の第一ホテル(注2)が開業。発案者は阪急グループ小林一三。巨大ホテルの営業が可能となる市場が成熟したと言える。
1939年(昭和14年)洋画家で水彩画の第一人者、三宅克己(こっき)が「アトリエとホテル」を雑誌『旅』に寄稿。各地のリゾートホテルのロビーで絵筆を存分に振るった、と記す。天候に左右されずに描くことができたからだという。ホテルのユニークな使い方が示された。
1954年(昭和29年)1937年(昭和12年)竣工の佐藤新興生活館の内部を改修した山の上ホテルが開業。出版社の多い東京の神田駿河台という場所柄、作家に利用される。
(注1) 宝塚ホテルは老朽化と耐震性の問題により、移転・新築の予定。宝塚大劇場の西隣に2020年開業の計画。現在のホテルは新ホテルの開業まで営業を継続する予定。 (注2) 第一ホテルは1993年に高級志向のホテルとして全面改築され、第一ホテル東京として生まれ変わった。